私たち日本人の祖先である「縄文人」についてと、
その縄文人が、自然的存在全てを神として信仰していた文化については前回のブログで詳しく書いていますので、お時間のある方は読んでみてください。
過去の記事
古くから、日本の東北地方・北海道から北関東、甲信越地方にかけての山地帯で、古い方法を用いて集団で狩猟を行う者のことを「マタギ」と呼んでいました。
東北の有名な世界自然遺産「白神山地」で、マタギとして生活していた方が、
「マタギとは何か、山の神とは何か」を語っている素晴らしい動画があり、それを文字に起こしてみましたので、ここでご紹介します。
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自分が15歳の時、初めて熊狩りに行く前の日に、マタギである父親に言われた言葉があリます。
「殺す動物が憎いから殺すわけじゃない。
憎しみも何もない動物を殺すということは、心を鬼にしなくてはならない。
情け無用で、 一瞬の間に、相手をあの世へ送りなさい。
動物とか生き物を殺すたびに鬼になるから、
【又(また)、鬼(ぎ)】
これが又鬼(マタギ)の語源だ。」
と教えてくれました。
「殺す相手を苦しめることなく、一発であの世に送りなさい。」
一発であの世に行くわけですから、
痛みも苦しみも何もないわけです。
これが、又鬼(マタギ)の基本です。
大昔、弓も槍も何にもないときは、
石や棒で、生き物を叩いて殺しました。
ですから、
その「たたき場の神様」というのが一番先にきます。
次は、常徳様というマタギの神様がいます。
授かった獲物は、まずは
①に、叩き場の神様に捧げる。
どの肉でもいいわけではなくて、
(心臓、肝臓、心臓、肝臓、首の肉)の順で、
【5切れ】を棒に刺す。
②に、常徳様(マタギの神)に【7切れ】捧げる。
③に、山の神様に【12切れ】捧げる。
12とは、山の神様の数です。
神様に捧げる大事な肉なので、必ず手で持って焚き火で焼く。
それで、お神酒をあげて、各神様に感謝をしてから、
それを頂くのです。
これが、マタギの人たちの作法です。
誰かが熊を撃って授かると、分け前はいつも平等なんです。
撃った人も、年寄りも、初めて猟に出る若い者も、
全部分け前は同じなんです。
そのようにして、恵みのものを
「自分だけのものではない、次の人も、次の世代の人も、皆同じように頂けるように・・・。」
という心があります。
ですから、この山は遥か昔から全然変わらない。
そして、
山のものには、女性は一切手を触れられない。
山の神様というのは女性なんです。
ですから、女性の匂いの染み付いたものは山の神様の失礼に当たるので、
持っていかない。
前もって、着ていくものも自分で洗濯をし
髭を剃って綺麗にし、山へ行くのです。
熊でも、魚でも、山菜、キノコでも、
全て山の神様からの授かりものという考え方があるわけです。
山には、山の神様の祠(ほこら)というものはない。
それでも、神を信じる。
マタギである父が教えてくれたのは、
「山の神様の、神社も祠も何にもないけれど、
私たちの心の中には、いつも山の神様がいる。
山の中に入る人の、心の中に、神様がいる。」
お前の心の中にいるんだって言われれば、これほど恐ろしいものはない。
マタギは、何日も山に泊まることがありますが、
熊の猟がないときには「迷いをかける」といいました。
道に迷うという意味ではなく、「夢をみる」ということ。
そういう縁起のいい夢を見ると、その日は必ず熊が授かる。
これが、神の世界なんです。
罪もない動物の命を奪うんだから、私たちが逆に奪われても
一切文句は言わない。
ですから、
命を惜しむ人は、又鬼にはなれないんです。
山へ行くときは、なかなか帰れないときもあるが、
1週間も10日も帰らなくても、
「私のことは探すなよ、と。どこかで骨になっているから
そのまま諦めなさい。」と、
うちの人にはそう言って、山へ行くんです。
いつどこで死んでもいいように、
いつでも心構えは十分にできています。
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私もよく、狩猟で山に入る夫に、
「山で何が起ころうと、自分たちも命をいただいている以上、逆に自分たちが死ぬことになってもそれは仕方のないこと」と常々言っていた。
その心は、やはりマタギと共にあったのだ。
今日もここまで読んでくれてありがとうございました!
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